2003年5月のコラム

2004/5/24
「デス・エデュケーション」
子供の難病シンポジウム 死の受容と生き方への支援から
「宮本隆司写真展」世田谷美術館
建築の設計、特に住宅の設計をしていると実は人の死という現実を考えさせられることは多い。だが多くの場合そのことを声高には話したりはしない。それは今の日本では死について話すことはタブーになっている場合が多いからだ。しかし死は必ず訪れる。難病の子供支援ネットワークがシンポジウム「死の受容と生き方への支援から」を開くと聞いて参加した。非常に考えさせられる講演会だったがその中でも「デス・エデュケーション」の話が非常に興味深かった。デス・エデュケーションとは死について学ぶことでありそれを通して生きることの意味を理解するようにする教育のこと。これは大人だけではなくて子供にも行われる。このことを話された中村博志氏(日本女子大学教授)は現代の社会の問題はこのデス・エデュケーションの欠落による死に対する認識の欠如、誤解が原因になっていることが多いと指摘する。私も最近日本人の死に対する考え方が恐ろしく安易になってきているのではないかと考えることがある。特にそれを感じたのは祖母の葬儀に出たときに見た葬祭場の演出だ。式が始まると照明が落とされ、係りの人が長い棒の先に火をつけ、音楽が流れる中祭壇のロウソクに火をつけたのだ。火がつくとパッと照明が明るくなり、お坊さんの入場のアナウンスが流れる...まるで結婚式場のような演出。私はついに死も消費されるような陳腐な演出の餌食になってしまったのかとショックだった。このような演出は悪いが死への冒涜とも感じる。まるで死の悲しみが伝わってこない。バーチャルな感じだ。まさにこれはデス・エデュケーションの欠落であり生に対する意識の希薄さの裏返しであることがわかる。全ては軽いのだ。祖母は非常に苦労してきた人でその人生には似つかわしくない葬儀だった。シンポジウムの中で亡くなった子供を考えるとき「かけがえの無い命、それをありのままに受け入れよう。世界中でただ一つの貴重な存在だ」と訴える人がいた。この世界中でただ一つの貴重な存在という考え方は強く心を動かされる。建物を設計するなら、そこに住む人々はそれぞれ世界中でただ一つの貴重な存在であるからその存在の本質を受け止めれるものでなくてはならないはずだ。これは非常に難しい。よく「終の住まい」とデザインのキャッチフレーズにすることがあるがそういう時は各個人を唯一の存在と考えていることは少ない。一般的にこうであれば喜んでくれるだろうと言う大衆的な事が多い。その方が売れるからであるが本当は人間はもっと多様で複雑だ。一言で語るなどというのはおかしな話だが広告とはそういうものであり消費者もその方が考えずに分かりやすいので受け入れてしまう。これはどうなんだろうか?

そのあと世田谷美術館で宮本隆司の写真展を見た。建築をやっている人間で宮本隆司を知らない人はいないだろう。彼の写した「建築の黙示録」「九龍壁砦」は目にした事も多いはず。彼の視点の興味深い点はまさに建築に対するデス・エデュケーションであることだ。建築の設計は新しく作り出す事がフォーカスされるが多いが、宮本によって建築物が解体される事の事実を眼前に提示されると、はたと考えさせられる。いつかは壊れる建築物。だからこそ壊れる前の生きている空間を大事にしようと考える。死から生を学ぶという訳だ。あと宮本の写真を見て再認識したのが廃墟と遺跡の違いだ。アンコ−ルの遺跡で写された空間と「建築の黙示録」で写された空間を見ると一目瞭然。建築の黙示録ではまさに廃墟である空間が映し出されている。ただ廃墟はまだ建築としての何かを持っている。震災の後の倒壊した建築物の写真もあったがそこに映っている建築物はただの物体という次元にまで暴力的に還元されていた。この質の違いは是非感じ取ってほしい。そのほか「段ボールハウス」「ピンホール」「さかさま、うらおもて」など興味深い写真や映像が展示されている。オリジナルプリントが見る事ができる必見の展覧会だ。

2004/5/3
「エレファント」
監督:ガス・ヴァン・サント
傑作。現実の世界のあまりに繊細なバランスを浮き彫りにした映画。見ていて不安感が常につきまとう。不安と言うのも変かも知れないが...
99年アメリカ、コロンバイン高校での銃乱射事件を題材に事件当日の一日を描いている。だから後味が決して良い訳ではない。

あまりにも平凡に見える高校生の一日。しかしそこにいるそれぞれ個人の内面は一様ではない。
それぞれがある瞬間、交差する。それは何気なく過ぎ去ることもあれば、決定的な瞬間だったりする。
刻々と近づくその瞬間。しかしそれはあまりにスムーズに描き出され始めてしまう。
このとき見る側に混乱が生まれる。我々は予兆というものがあると不安や恐怖を感じても映画という最終的な客観性の中であっては混乱は起こさない。少なくとも私はそうだ。しかしこの映画は混乱させる。たしかに銃の購入シーンや人を射殺するTVゲーム、いじめなど予兆はある。でもその後に現れる惨劇を想像させない。それはその映像の美しさであったり演出を極力控えた表現だったりするのだが..

そこで起こったことは社会の僅かのズレでしかないのかもしれない。同時にそのズレがかいま見せた人間のもつ本質には恐怖すら感じる。今や殺人に大きな動機の必要がなくなってきている。しかしそれさえも驚くにあたらないと感じてしまっていることこそが「エレファント」の表現の本質ではと感じる。

単純であること。無垢であることは客観的に見たつもりの幻想でしかないかもしれない。我々は訓練されていないのだ。本質を見抜くこと、複雑性を理解することを。それは常に巨大(象)すぎて一部しか理解することができない。

ありふれた日常を美しい映像で切り出し、各個人を複層的にとらえたカメラワークは時間軸で流れ、2次元という制約を持った映画をうまく利用していて必見。あと音の演出もかなり考えられている。

エレファント goo映画


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