2005年2月のコラム

2005/2/28
「河原 温展」

豊田市美術館に「河原温 ー意識、瞑想、丘の目撃者ー」を見に行ってきた。河原温氏は1966年から続けている「Today」シリーズが有名だ。これはカンバスにただ日付だけが描かれている。それが現在に至るまで延々と続けられている。20年前にそれを見たときはこれが芸術とはとても思えなかった。しかし、年を重ね多くのものが代わりそして生まれ、同時に失って行く経験を通してみるとただ時間だけは変わらず機械的というか絶対的に刻まれ続けると言う事実にショックを受ける。それを彼の作品は提示してみせる。これは非常にシンプルだが見る側にその解釈を強く迫る作品と言える。だから私が今回はこの作品に強い関心を示したのだろう。見る側が変わるとこの作品のイメージも変わってしまう。もちろん彼の作品は世界的に評価されている。この展覧会も世界を巡回している。ちなみに1966年は私が生まれた年なので「Today」シリーズの制作は私の時間と連動しているようでいつも不思議な感じがしてしまう。「過去100万年、未来100万年」「I AM STILL ALIVE」もすばらしかった。残念だがこの展覧会は昨日で終わってしまった。紹介が遅れて申し訳ない。


メインの展示室。「Today」シリーズが床の上に墓標のように並んでいる。作品が載っているのは大理石の板。

「IN BED展」
これも紹介が遅れてしまったが「河原温展」の前に同じく豊田市美術館で開催されていた「イン・ベッド[生命の美術]」も非常に素晴らしい展覧会だった。ベットというか「寝る」と言う行為の中にある人間の営みを多様な角度から切り取った作品の数々が展示されていた。寝ると言う場所にこれほどの意味と解釈の仕方があったのかと感心させらる。

「豊田市美術館」
しかし豊田市美術館は相変わらず美しい。整いすぎていて逆にCGか模型に見えるぐらいだ。さすがに多少の傷みや汚れなど着いて来ているが...それでもちょっと人間的な感覚を失う感じがあるのはなぜだろうか?例えば写真を撮ろうとしたとき人がいない方が美しく見える。人がシミのように見えてしまうのだ。これはあまりにも高い完成度とバランスを求めた代償なのだろうか?人間が過ちを繰り返し続けるのとは逆に。

2005/2/24
「アーキラボ展」

ようやく話題の「アーキラボ:建築・都市・アートの新たな実験展 1950-2005」を見に行く事が出来た。建築の世界で今なお続けられている実験の大きな流れが見る事が出来る。この展覧会は特に実験色の強いものが並ぶがそこから影響を受けて設計を行っている建築家も多いと思う。ざっと見て思うのは常に新しい事への飽くなき挑戦だ。ただし「新しい事」とはなにもデザインだけではない。構造、素材、生活スタイル、社会問題、環境問題、身体性、文化等々あらゆるものを含有している。50年前には夢のような提案が現実化していたり、逆に幻想であって間違っているのではないかと思うものまで。しかしこのような実験はこれからも延々と続けられて行く事になるだろう。それは人間が持つ本能的なものなのか?古き良さを大事にする一面と全く新しい未来への扉をこじ開けようとする側面と建築には両極端が存在する。もちろん大部分はその中間に存在するのだが。

「TOD'S」
表参道にまた新しく興味深い建築が出来た。伊東豊雄氏設計の「TOD'S」だ。ケヤキの木の自然形態から抽出された構造がそのまま建築のデザインを決定している。自然の形状はある意味非常に単純なシステムながら複雑な形状を生み出す事が多い。「TOD'S」で採用されたのは木が持つ分岐のシステムだ。根元から徐々に分岐を繰り返し先端にいくに従い細く軽快になって行く。また複数の木が重なったようにデザインされているため形状が非常に複雑で(ある程度の操作はあるだろうが)人為的な感じがあまりしない。偶然そうなったのではないかと思えるほどだ。不規則な開口が連続するためこの建物では階層が良く分からない。つまり何階建てかパッと見わからない。内部もよく出来ており思わぬ開口の形状にわくわくさせられる。(商品を買う訳ではないので迷惑にならないようにささっと出て来たが...)武田 稔氏のHP「けんちく探訪
に非常に詳しく写真が載っているので見ていただけると良く分かると思う。「TOD'S表参道 行ってきました。」他の建築もディテールに至るまで詳しく記録されているので非常に参考になるHPだ。ちなみにもう一度「PRADA」も見て来たがやはりインパクトがあった。

「±0 AOYAMA」
最近プロダクトデザインが元気がいい。一時期の「とりあえず有機的デザイン」の波が去り、もう一度シンプルに考え直そうと言う方向に向かって来ている。雰囲気としてはミニマム+αと言った感じだ。そんな中話題の「±0 AOYAMA」に言って来た。こじんまりとした空間だがその分商品の存在感が浮き上がる。上手い演出だ。展示で面白いのはまだ商品化されていないプロジェクト段階のものも展示している点だ。普通の企業だとプロジェクト段階のものは極秘扱いになるがその点はアンテナショップ的な意味合いが強いのだろうか?プロダクトはどれもシンプルでそれでいてちょこっとだけ主張している感じのものが多い。あと面白いのは客層だ。意外と家族連れが多いのに驚いた。大手メーカーのデザインには無いものを求めている購買層が多い事の現れか。

「アート・ミーツ・メディア:知覚の冒険」
I.C.Cで行われている「アート・ミーツ・メディア:知覚の冒険」を見る。特に良かったのが池田亮司氏の「《db》」である。全く光のない無音室の中で高周波から低周波までのノイズの洗礼を受けた後に目も開けられないほどの光の「闇」の中に放り込まれる。そこでは陰さえも既に存在しないそして一定のノイズが微かに聞こえる。これは一度経験して損は無い。現代美術が苦手の人でもこの展覧会は気楽に楽しめる。

2005/2/13
「種の絶滅速度が1000倍!そして愛知万博」

最近のニュースを見ると気分が悪くなる事の方が多い。つい先日も国連が「生物絶滅速度、自然の1000倍 国連評価報告書案」を発表した。最近は何かと二酸化炭素排出による温暖化の問題が多く取り上げられているが環境破壊による自然体系の劣化も重くのしかかっており、人間に対する脅威も一段と速度を速めて強まっているという事だろう。しかしそのことを肌身に感じる事はなかなか出来ないのではないだろうか?気づいた時は既に遅しという事にならなければ良いが...しかし人間が活動する限りその活動量に比例するように問題も生まれてくる。どこかで読んだ記憶があるが「自分が自由になるには他者に不自由さを強いる。同じく平等にしようとすると差別が生まれ、権利を主張すると権利を踏みにじられるものが現れる。上に登ろうとすれば踏み台にされるものが出る...」人類が未来に手放しで夢を抱く事が出来なくなったのか?気が重くなるばかりである。

そんな折の「愛知万博」である。テーマは「自然の叡智」。この時期の万博としてはとても意義のあるテーマと言える。しかし私の周りでは万博不要論が大勢を占めている。万博などもう時代遅れだと。しかしそうであろうか?万博は国レベルの博覧会だ。国レベルで一堂に会する機会と言うものはそうある訳ではない。さらに万博は対象が大衆に置かれている。これは素晴らしい事ではないか。国のプライドを掛け自然環境に対する取り組みや新しい技術、研究などを分かりやすく紹介し今人類が置かれている危機的な状況を感じさせる事が出来れば十分価値があると言える。あと万博自体については反対はしないが今回の愛知万博のあり方については反対と言う意見もある。万博についてはまた何度かに分けて書きたいと思う。先日も会場を見てきた。とりあえずは「間に合うのか?」の方が心配になった。ここまで来てしまった以上なんとか本当の意味で成功して欲しい。

「Ray」
故レイ・チャールズの自伝映画。彼がどのようにして音楽を創造してきたのかがよく伝わってくる。レイ・チャールズの事やアメリカの音楽の歴史など知らなくても十分に楽しめる。事実私もよく知らないくちだ。でも見終わった後にはアメリカ音楽、特に黒人系(必ずと言う訳ではないが)の音楽に興味が湧くはず。しかし主演のジェイミー・フォックスの演技が素晴らしい。レイ・チャールズを詳しく知らないのに言うのも変だが違和感が無い。間違いなくこう言う人だったんだろうなと思ってしまう。あとアメリカの闇の部分もさらりとではあるが描かれているのでそれほど重くならずに社会背景を知る事も出来る。

Ray予告編
Ray解説」eiga.com(ちょっとネタバレ。注意)

2/8「京都3大楼閣」に下記を追補しました。

「日本庭園の勝手な見方」「柳 幸典」

リンクは2/8の方に貼ってあります。

2005/2/9
「WTC」

アメリカ同時多発テロの標的となった国際貿易センター(WTC)について自動車評論家のボブ・スリーウ゛ァ氏と話し合った。(その前に多くの犠牲者の方、その家族に哀悼の意を...そして世界の争いが無くなりますように。とても困難な事とは思うが) WTCには一度行ってその外壁に触ってきているのであの巨大な構築物が崩壊したとは今でも信じられない。その時の印象はなんと明快な建物なのかということに尽きる。そしてちょっとの不思議さ。WTCは良くも悪くもアメリカの経済とはなんであるかを象徴しているかのようだった。徹底的に効率が求められ得られたものはテリトリー内に蓄積する。そしてその成果を具現化する。まさにそれがあの超高層建築と言える。それが二本ずれて立っている。構造を外部に押し出し内部はエレベータ類のコアがある以外フリーな空間になっていた。徹底した機能優先である。そのため装飾性は排除されていた。ただ構造的な部分で多少の意匠はあったが...さてここでボブ氏がWTCのデザインについてこう話し始めた。「あれはつまらない建物だった。ただの四角で背が高いだけ。クライスラービルの方がよっぽど面白い。」これには初め驚いた。確かにニューヨークと言えば名だたる超高層がある。しかし建築家以外の目から見るとWTCはつまらないのか?上記のような説明をしたがボブは不服そうだった。そこで視点を変えて説明してみる事にした。「WTCがモダニズムの終着点。終わりの建築ではなかったのかな?」これにボブは激しく同意した。「そう!あれはひとつの終わりの象徴だ。だからつまらないのだ。」実際はWTCの設計理念はその後多くの超高層に取り入れられて行く事になるが既にそこには終わりが規定されていたという訳である。もちろん現在作られている超高層はあの手この手で形態や装飾性の復権を成し遂げながら作り続けられているが。ところでWTCの跡地に新しく建てられる超高層ビルが国際コンペで決まり建造されている。しかしどうやらコンペの時の案とはかなり違ったものになっているらしい。世界一高い?ビルが建つはずだがWTCのように双子のように2本建つのではなく高いのが1本と中ぐらいのが数棟。いろいろな利権や建築家のデザインポリシーがぶつかり合いかなりぐちゃぐちゃになっているようだ。そういえば国際コンペの前に一度地元の建築事務所だけでコンペを開催したがあまり良い反応が市民から出なくて(つまりつまらないと判を押された訳ですね)それじゃってわけで国際コンペになったという過程もあって国際コンペの方はなかなか面白い案が残っていた。私個人の気持ちではなんとなくWTCの2本の双子ビルの印象が強かったので複数の同じ高さのビルが立ち上がっている案が選ばれないかなと期待していたが....少し前に追悼の意味を込めてWTC跡地(グラウンドゼロ)のすぐ脇でサーチライトを使って光の柱をWTCに見立て天に向けて立ち上げるイベントがあった。写真を見ただけだがとても美しくそして悲しい記念行事だった。

WTC
WTC(英語)

wtc跡地コンペ(英語)

高層建築に関して分かりやすく書かれているHPがあったので紹介しておきます。このページの次のページにニューヨークの摩天楼についても書かれています。

新・バクシーシ!009 高層建築の歴史(1) ─現代の超高層ビル

2005/2/8
「京都3大楼閣」

京都3楼閣と言えば「金閣」「銀閣」「飛雲閣」である。どれも非常に見事な建物である。「飛雲閣」は特別公開の時に見たが、今はたしか非公開だったような記憶がある。私自身は古風な日本的建築を作っているわけではないが見るといろいろ考えさせられる。たとえばこの3楼閣には大きな共通点がある。それは複数の様式を混合させている点である。「金閣」は1層目は寝殿造風、2層目は武家造風、3層目は禅宗仏堂風の積層になっているし、「銀閣」は1層目は書院風、2層目は唐様仏殿の様式。「飛雲閣」に至ってはもう様式も何もあった物じゃない。(もちろんちゃんとありますが)いくつの様式が取り入れられている上、建物全体としての対称性は徹底的に崩されちょっとおかしいのではないかと思えるぐらいだ。しかしそれでも信じられないようなバランス感覚で成立させてしまっている。この複数の様式を取り入れるという方法は実は非常に高度なバランス感覚がないと悪趣味な物になってしまう。ほんの20年近く前世界は「ポストモダン」という流れがあった。ともすれば四角四面の愛想の無い「モダンスタイル」に嫌気を指した建築家が過去の様式をもう一度復古、再解釈して建物のデザインの中に組み込もうと挑んだのだ。しかし今自分をポストモダニストと言う建築家はまずいないのではないだろうか?日本にもいくつかのポストモダン建築が出来たが20代のとき見たそれは表層的な様式の寄せ集め的でちょっと苦笑せざるを得なかった記憶がある。(もちろん私が見ていない建築で傑作があるかもしれない)では複数の様式を取り入れる事は難しいので止めた方が良いのか?これは間違いだろう。現在の建築(人間が建築物を造り始めた頃からと言っても良い)では過去の建築の要素をどんどん組み込んでいる。それは様式に縛られる事無く建築空間の使用方法(生活様式は変化し続けている...)の考え方や空間のあり方(空間の感じ方)、形態なども自由に再解釈されている。さらに技術の進歩、特に材料と構造解析およびテクノロジーの進歩による建築自体のあり方の変容、そして地球規模の環境問題など建築にはあらゆる要素がなだれ込んでいる。それら全てはそれそれ一つの様式と言っていい
。そしてその選択肢は無限に増え続けているのだ。「金閣」「銀閣」「飛雲閣」そのどれもが当時の最高技術で欲張りにもいくつもの歴史様式を取り込んだ建物である。道楽と言えばそれまでだが卓越したバランス感覚という点では一致している。どんな時代背景があろうとも。

金閣」「銀閣」「飛雲閣

2/13追補
3楼閣を調べているとき偶然非常に面白い解釈をしているHPがあったので紹介しておきます。「2.日本のサイケデリックデザイン」のところで金閣、飛雲閣が出てきます。少々毒気もありますが私とは別の切り口として...

日本庭園の勝手な見方」先崎 哲進氏 第3回PLANTS!

同じくひょんな事から現代美術作家の柳 幸典氏のHPを発見。非常に興味深い作品を作っているので現代美術が好きな方は是非。犬島のプロジェクトは興味深い。

柳 幸典

2005/2/7
「バーチャルリアリティ」

建築に限らず世界には一度見てみたい所があると思う。でもそのすべてを見る事は出来ないのが現実。で写真などを見て想像を膨らます事が多いのではないだろうか?でもこの写真というのが厄介でどうしてのその性格上ある一部の風景を切り取る事しか出来ない。ちょっとカメラに興味のある人なら構図を気にしたりしてよりよく見えたりする角度などを考慮して撮るので現実の醜い部分を上手く隠していたりする事がある。例えば非常に面白い建築があったとしてもその横にそれを台無しにするような物があったとしても写真に写らないようにするのだ。それと当然のごとく後ろは映らない。私もつい数年前まではギザのピラミッドは砂漠の中にぽつんとあると思っていた。でも実際はすぐ手前まで町が迫っている。こうなってくると写真の映ってない所はどうなっているのか非常に興味がわいてくる。そんな好奇心を見事に解消してくれる技術がバーチャルリアリティの一つ「QuickTime VR」だ。これは写真を360度ぐるぐるっと画面上で見て回れる。ちょうど一点に立って体を一回転させた感じだ。初期のQuickTime VRは足下と天井は見る事が出来なかったが現在は両方出来るようになっている。真下を見るとちょっと空中に浮かんでいる感じがして面白い。どうやって写真を撮ったのか大きな疑問が残るがまあそれはおいておいて楽しんでいただきたい。前置きが長くなったがそんなQuickTime VRのHPがあるので是非体験する事をお勧めする。

panoramas.dk

150カ所以上の写真があるので全部見るのは大変なのとデータが非常に重いのでブロードバンドか光ファイバーでないときついかもしれないが...右上の「PANORAMAS 2004」と書いてある所をドラッグすると2004年の掲載データ一覧がある。2003、2002もあるので暇な時にどうぞ。なんと名古屋の新名所「オアシス2001」があるのは驚いた。「オアシス2001」は賛否両論だが海外の人から見るとやはり驚きなのだろうか?以前ドイツの写真家が名古屋に来た時に「名古屋はなんて面白い町並みなんだ!ドイツは古くてどこも同じでつまらない。」と言っていたのを思い出した。そのとき私としては軽いショックを覚えた。今、万博がらみでせっかく名古屋まで行くのだからついで名古屋で是非見に行くべき所を教えて欲しいと頼まれているがすぐに思い浮かばなかった。デザイン都市宣言までしているのだが...

2005/2/2
「ドングリ広場」

名古屋建築会議の活動の一部で名古屋に散在するドングリ広場をになにか仕掛けて行こうと動き始めました。ドングリ広場の説明はこちら。
遊休地を一般に開放する制度ですがなんと500カ所近くの広場が散在しているのは名古屋に住んでいながらちょっと驚きです。とりあえずは万博に絡めて万博会場以外の所も活性化するのが一つの目的です。現在の活動状況はこちら。ところで町の中に暮らしていると公園の意味はまあいろいろあるわけです。最近は地震等の災害時の避難場所であったり、(阪神大震災では公園が火の手の延焼を防いだりした)防災的な側面が大きくクローズアップされていますが、マンション暮らしだったりすると共有の庭みたいな感覚なんですよね。でもなんか大事にされてない場合が多い。もしくは子供用の遊具を並べておしまいとか、ゲートボールが出来るようにただフラットな地面むき出しの空間だったり...確かに日本の夏と冬は屋外は非常に厳しい環境ではあるけれども春と秋ぐらいは心地のいい(もしくはセンスのいい)屋外空間で時間を過ごしたい。そんな公園は皆無に近い。一般の公園ならまだ広さがあるのでなんとかなりそうだがドングリ広場となると中には猫の額程のもある。その上周りはビルに囲まれていたり...そんな劣悪な環境下でもそこにいたいと思える空間デザインはあるのだろうか?たとえば枯山水の庭を見るとき中に入ったりはしない(させてもらないだけなのだが)眺めるだけでもこころ和む空間でも良いかもしれない。一面クローバーが生えている緑の絨毯にするという案もあったが緑地の回復という意味でも見た目でも悪くない気がするし、1960年代のランドアートのように地面をいじるだけ(ただ盛り上げたり溝を掘ったりするだけ)の案もあるだろう。ドイツに行った時に家にいるのもなんだから公園でも行かないかと誘われてゆっくり時間を過ごした事がある。生活の中に広場が組み込まれている証拠。防災、子供の遊び場、老人の交流の場、そして生活を豊かにする贅沢な空間であって欲しいと願うばかりだ。

興味のある人は「どんぐりひろばプロジェクト」のブログにトラックバック、コメントしていただきたい。


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