2005年4月のコラム

2005/4/18
「自然を巡る1000年の旅前編」

愛知県美術館で日本絵画の歴史を巡る壮大な展覧会「自然を巡る1000年の旅」が開催されている。前期と後期で作品のほとんどが入れ替わると言う物量的にもかなり大規模な展覧会だ。前期が終わりそうだったので急いで観てくる。1000年前の絵画にも驚かされるが1000年の絵画の中の空間の捉え方の変化が非常に興味深い。我々が現在当たり前のように捉えている透視画法はイタリアのルネッサンス期に確立されてまだ500年しか経っていない。日本に伝わったのは江戸時代のはずだから結構新しい技法なのだ。それ以前はと言うと...その前に実は透視画法というより遠近法について書きたいがかなり奥が深い。簡単に書くのはかなり危険。これは脳が一体どうやって空間を認識するかと言う問題を基礎として思想や社会性まで飲み込む幅の広い要素を持ち合わせているからだ。たとえばなぜピカソは透視画法を無視して見えない反対側の顔の側面まで描こうとしたのか。そこには視覚という問題と認識という問題の間には不思議な関係がある事を示している。われわれはどこかで実際見ているものを補足している事が多い。実は目が見ている映像は結構曖昧でぼんやりしたものでそれを脳が再構築して詳細を描いているとNHKで見た覚えがある。人間の認識は全て幻想であるとも説明していた。....話を元に戻そう。透視画法が発見される以前はなぜか平行な線が無限に遠くなる所で点として交わるとは想像すらしていなかった。話は簡単である。

「君、私はこの道を100Kmも走ってきたが縮んでくっ付いてしまう事など無かったよ。当然絵に描かれる道も遠いからと言って幅が狭まる訳は無い。」

これは視覚的な論理を認識的な論理が駆逐した例だ。もちろん間違ってはいない。幅10Mの道は地球の反対側まで行っても幅は10Mだから。たしかにそのとおり。そしてここから先がある。

「君。私が来た道は100M先では幅が20Mもあったがここでは5Mしかない。だから絵に描く際には遠くの道は手前の道よりも幅を広く描かなくては嘘だよ。」

逆遠近法と言えるこの理論はこれはこれで正しい。記憶の中ではそれで成立しているからだ。海外旅行をしたとしてその町を思い出したとしてみよう。決してあなたはそこが遠いからと言って透視画法的に恐ろしく遠くにある小さな町として認識する事は無いはずだ。透視画法とは視点の束縛であり本来の脳の空間認識とは大きく異なる。友人の顔をよく思い出してみよう。横顔しか思い出さない事は無いはずだ。記憶にはあるが見えない裏側までをキャンバスに落とし込もうとしたのがピカソなどのキュビズムの作家だ。(ちょっと断言出来ない)遠近法はそう言う意味で透視画法とはちょっと違う言葉として考えたい。さてようやく展覧会についてだがそう言う見方で見ると実に面白い。別に遠くのものが大きく描かれていようが配置が変であろうがそんな事はどうでも良く思える。その時の空間把握がどのようなものであったが逆に良く分かる。絵巻物に透視画法が使われていないのは当然だったりする。画面から飛び出した木の枝がまた違う場所から画面に現れても問題ない。全ては脳、もしくはその記憶や経験が補完してくれる。なんて楽しいことか!この展覧会は必見。個人的には伊藤若冲が好きだったりするがどれも素晴らしいものばかり。宗達もすごかったか。筆舌尽くしがたいとはこのことか。

数学にみる遠近法の東西 新藤茂(国際浮世絵学会常任理事)版画研究会

モデナ大学博物館の数学機械のコレクションについて  Marcello Pergola マルセル ペルゴーラ


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